3.11という日

2018年4月24日

今日は誰もが思い出す日となってはや7年が経過しました。『東日本大震災』について、振り返ってみたいと思います。

生い立ち

最初にaicsの生い立ちから少し振り返ってみたいと思いますが、産まれは青森県五戸町。そこから父の都合で小学3年の時にむつ市の社宅へと引っ越しました。中学卒業と同時辺りに同市内にある祖父の家に子供部屋を増築して移りました。

高校卒業すると、専門学校に入学する為、仙台市へ2年間居ました。内1年は寮生活でしたが、中々合わずに1年で寮を出て一人暮らしを始めてしはじめた19歳。

無事就職先が決まったのは卒業制作日があった2月だったのを今でも覚えています(;^_^Aそこで岩手県盛岡市に就職の為、お引越し。

そこで4年ほど過ごすのですが、就職する際に手取りの話などをしなかったせいか、手取り14~16万程度で家賃\53,000ほどの所に入居してしまい中々厳しく感じて来ました。しかも手取りは年々右肩下がり。夜勤をやってこの金額・・・。バイトの方が稼げます(ノД`)・゜・。

なんとか打開策を考えて親にお金を借りて同市内に\40,000の所に引っ越しました。しかし手取りはやはり右肩下がりが止まらず、2年ほど頑張りましたが最低手取り\11,300を目にした瞬間、やってられないと思うようになりました。

そこで転職し、現在の会社に入社する事が出来て、勤務地が福島となったので、福島県郡山市へお引越し。そこで、6年ほど過ごした時に異動命令により現在の住まい秋田県秋田市へお引越し。自分と同年度に転職・退職した人が15人にも及んだそうで、みんな思う所は一緒だったのかも知れませんね。

と、振り返ってみると1つの住居に最長で7年ほどしか居座る事が出来ない星に産まれてきたのか各地を転々として居ます。おかげ様で各地に知り合いはそこそこ居るのですが(;^_^A

東日本大震災

ようやくこちらの記事になりますが、先のヒストリーで見ると福島県郡山市に2010年12月に転入したのですが、そこからわずか3か月での出来事でした。当時はまだ内陸地震など震度6クラスが年に1回ペースで発生しており、震災当日も「あぁまたか」くらいに思っていました。

発生当日は3連休の最終日で食料やガソリンを買い出しに行こうとしていて、本屋に居ました。店内に居ましたがさすがの揺れに店内に居た人全員が外へ退避したので、aicsも外へと非難し、自分の車のボンネットに腰かけていました。あそこまで揺れるともう笑うしかないなぁと感じてその瞬間は笑っていました。怖さを紛らわす目的もあったかもしれませんね(/o\)

揺れも収まり仕事の都合上、会社へと向かうのですが、所々信号機が消灯しており、事故を起こさない用にいつもより慎重に車を走らせて会社へと急ぎました。

会社に着いて職場に入るとほぼ皆出社済みしたが、本棚から資料などが落ちて散乱しており、大きな搬入用入口がなぜか全開で3月のまだまだ寒い風がガンガン入り込み寒かった事が思い出します。なぜ開けていたのか?資料が散乱しホコリ対策だったのかもしれませんね。

そんな中知り合いが気仙沼市に住んでおりメールをしても無反応で、ニュース等でよくみる黒い津波の映像が流れたりして、その当時覚悟を決めた事ありました。後日無事連絡が取れ、職場に居たけれど胸の辺りまで浸水して大変だったと語っていましたm(__)mその時に携帯も浸水し使い物にならなくなったりしたそうです。

その後は余震に敏感になり、会社自体もガタが来たのか震度1程度でも座っていると揺れた?とわかる程度に敏感になってしまいました。

なんとか一時帰宅したのですが、家の中はそこまでの散乱は無かったですが、内装の壁の各所にひび割れが発生しており、冷蔵庫も前後に揺さぶれたのか壁の後部に穴が開いてしまっていました。ですが、ガスコンロの上にあった作り置きのカレーは無事でしたw

ですが、先に記載した通りこれから買い出しに行く予定だったので、ガソリンはほど無くエンプティーに、食料も冷蔵庫はほぼ空っぽ。仕方がないので徒歩で会社に向かい1時間歩いた事もありましたが、歩いている時はまだ知らない例のメルトダウン。一応福島第1原発から50kmほどは離れているとはいえ、先に知っていたらもう少し慎重な行動が出来たのにと思ってしまいます。

流通が止まってしまったので、ガソリンを買う為に50台くらい並ぶ大渋滞が発生したり、コンビニにもなにも置いておらず、途中にあった生鮮食品卸売場的な場所でミニトマト1パックだけ買うことが出来てそれを食べていた記憶が鮮明にあります。

仕事で会津に行った他部署の方がジャンプなどを買ってきてくれて皆で回し読みをしたのが懐かしい記憶です(*’ω’*)

また、実家でお米を作っている先輩がおにぎりを30個くらい作って差し入れてくれた事が転勤したばかりで右も左もわからないaicsにとってものすごく助かりましたm(__)m仕事が出来るのはもちろんですが、aics的には気配りを重視した社会生活を送るよう心掛けるきっかけになった1部です。

震災後

5月くらいに専門学校時代の子が避難生活を送っているという事で、数人で食料や服などを集めた物資を岩手県大槌まで当時の愛車コルトで向かいました。高速道路もあちこちガタガタだったりしていました。なんとか沿岸大槌町にある同級生の家に辿り着け、物資を渡す事が出来ました。今でも年賀状のやり取りは続いています(*’ω’*)

道中は道の両側に津波により発生したと思われるゴミなどが大量に置かれていました。また帰路で、そのまま南下し、同僚の実家のある陸前高田市を経由し気仙沼市に入りましたが、みな同じ経路を進むので常にぷち渋滞。道も車が走っている10cm隣は崩れて水なのか海なのかというギリギリな状態の箇所が多々ありました。


もう後1年前後で平成の時代が終わりを告げますが、それを境に風化の波は若干加速するのではないかと思われます。忘れず停滞する事はダメですが、完全に忘れてしまうのもダメだと思うので、どう向き合っていくか再検討しないといけない時期に来たのかと思います。

また東日本大震災にくっついて来る福島第1原発の廃炉問題。廃炉を決定してもそこから約30~40年かかると言われているので、大変な問題です。そんな中ゴミの処理問題が宙に浮いたままなのに原発を再起動させたがる政府の考えは全く理解出来ないのですが、そこは多分東北と東北以外で考え方が結構違うのでしょう・・・。

先日の池上彰さんの番組で、日本の海底にはエネルギー資源が豊富に眠っていると初めて知ったので、原発再起動にお金を掛けるならサルベージ資金に回した方が健全的であると言えます。恐らく政府としては原発再起動をし安全神話を再確立させた上で外国へ売り出したい考えなのでしょうが。

日記

Posted by aics